2009年06月17日

古代オリエントでは民族の興亡が激しく

古代オリエントでは民族の興亡が激しく、都市防備の目的で日干し煉瓦などによる城壁が盛んに作られた。城門はこれらの都市城壁に設けられたので「市門」とも呼ばれる。ヒッタイトの王都ハットゥシャは周囲約6kmの城壁に囲まれ、東南には王の門、南にはスフィンクス門、西南には獅子の門といったアーチ門が設けられていた。門扉は頑丈な木製であったと推定される。古代オリエントの市門には獅子やスフィンクスなど王城を守護する目的で聖獣の彫像が置かれることが多く、実利に偏った中国の城門とは対照的であった。

古代ローマでは都市国家時代から全長8kmの城壁が7つの丘を囲み、周辺の諸都市、他民族からの侵略に備えていた。帝政期に入ると、アウレリアヌス帝の城壁に見られるような石組み、煉瓦造りのアーチ門が発達した。これらは現在でもその遺構を目にすることができる。その後、城門には塔が増築されるなどして頑強なものとなっている。

ローマ都市の影響を受けた西ヨーロッパ社会では引き続いてローマ時代の城壁や城門が使われた。10世紀以降、封建制の発展に伴って、中小規模の封建領主が各自自らの居館として城塞を建て始めるが、こういった城塞の門もまた、都市城壁の城門に倣ったものであった。西欧には諸侯同士の戦争だけでなく、イスラム教徒侵入の恐れが常時内在しており、都市の城門はより一層壁を厚く、高くしていった。
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城門は石、煉瓦を積み重ねて出来ており、開口部はアーチ門の構造を取ることが多かった。門に付属して円筒形の塔 (turret) が構築され、城門への寄せ手に弓や火器による攻撃を行った。門外には堀が穿たれ、跳ね橋などによって外部からの侵入を退けやすくした。城門の外側に2重の城門が造られることもあり、こういった城外の小郭や門楼をバービカン (barbican) という。

これらの堅牢な城門を破るために破城槌、攻城塔などが活用されたが、中世が終わり、近代社会の到来に伴って、火砲は大きく発達を遂げ、封建諸侯の時代は終わり、政治的には絶対主義、軍事的には近代城郭が西欧社会に訪れることとなる。

2009年05月31日

北宋

北宋(ほくそう、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封。

北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、しかしそれでもその社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは個々の北宋・南宋の項目で解説し、区分しにくい分野は両者の統合項目である宋 (王朝)で解説することとする。
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907年に唐が滅亡し、その後の五代十国時代の戦乱の時代の後、960年に趙匡胤により建てられたのが宋である。太祖・趙匡胤から始まり、三代真宗の時代に遼からの侵攻を受け、これと和平を結ぶ(澶淵の盟)。これによって齎された平和な時代に大きな文化の華が開いたが、一方では財政の悪化などの問題を抱えるようになる。六代神宗の時代に王安石の手により新法と呼ばれる政治改革が試みられるが、これが政争の原因となり、混乱を招いた(新法・旧法の争い)。八代徽宗の時代に新興の金と結んで遼を滅ぼすものの自らも金に滅ぼされ、南に逃れて王朝を再建した。華北時代を北宋、華南時代を南宋と呼び分けている。この項目で取り扱うのは960年から1127年までの北宋である。

全盛期には中央アジアにまで勢力を伸ばしていた唐に対して、宋は遼(契丹)・西夏(タングート)という外敵を抱え、対外的には萎縮していた時代と見られている。一方、国内では様々な面で充実を見、特に文化面においては顕著な進展が見られた。

具体的に唐と宋との間の変化として最も大きな変化は唐までの中国で政治・経済・文化の主たる担い手であった貴族層が完全に消滅し、士大夫と呼ばれる新しい層がそれに代わったということである。

五代においては有力な家臣が皇帝を追い落として自ら皇帝になることが頻繁に行われていた。これに対して士大夫は官僚であることで士大夫なのであって皇帝を追い落として自ら皇帝となるようなことは不可能である。これにより「(突き詰めると)全ての政治的権限および責任が皇帝に帰する」皇帝独裁制[注釈 1]が成立した。
貴族は血筋によって貴族であり、それ以外の者がどんなに努力しようが貴族にはなれない。宋代では科挙に合格できるならばどのような出身であれ、高位に上り詰める可能性が生じた。現実的には貧しい者が科挙に合格するのはまず不可能であったが、それであってもその意義は大きく、このことにより一種の平等思想を生むことになった。この「平等」を現代の「平等」と一緒くたにしてはいけないが、より開かれた意識が見られるということは言える。
経済的には銅銭の発行額が桁違いに増え、また史上初の紙幣として交子が誕生した。
唐代の文化とはとりもなおさず「貴族文化」であって、その担い手も受け手も限られた階層の人間であった。これに対して宋代においては文化の担い手も受け手も数が大幅に増え、多くの点で新機軸を生み出すこととなった。
などの変化(これ以外にも変化は多い)がこの時代に起きた。これらの変化は単に王朝の移り変わりというだけではなく「中国史上で最も大きな変化」と考えられている。これを唐宋変革論という。

2009年04月28日

ナショナリズム

ナショナリズム(英: Nationalism、民族主義、国家主義、国民主義)は、思想や運動の一種。

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"nationalism"は通常、民族主義、国家主義、国民主義などと訳されるか、「ナショナリズム」とカタカナ表記される。文脈により多様に使い分けられており、その一義的な定義は困難である。主要な論者のひとりであるアーネスト・ゲルナーは「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義しており[2]、十全とは言えないものの、この定義が議論の出発点としてある程度のコンセンサスを得ている
ナショナリズムには二つの大きな作用があり、文化が共有されると考えられる範囲まで政治的共同体の版図を拡大しようとする作用と、政治的共同体の掌握する領域内に存在する複数の文化を支配的な文化に同化しようとする作用がそれである。前者は19世紀の国民主義運動にその例を見て取ることができ、後者の例は「公定ナショナリズム」としていくつかの「国家」において見出すことができる。

しばしばナショナリズムはパトリオティズム(愛国心、郷土愛)と混同されるが、郷土(パトリア)への愛情であるパトリオティズムは近代になって初めて登場したナショナリズムよりもはるか以前から存在しており、両者は厳然と峻別される現象である[4]。現在ではネイションがパトリオティズムの対象となる場合が多いが、これはむしろゲルナー、スミス、アンダーソンらが指摘するようにゲマインシャフト的共同体がゲゼルシャフトであるネイションへと再編成されていったのと軌を一にして、各地域ごとに無数に存在した帰属対象としてのパトリアを、ナショナリズムが文化的同化作用によって、ネイションへと帰属対象を集約していった結果として理解される。

こういったネイションの近代性は国家主義の立場からしばしば忘れられたり無視されたりしがちであるが、ネイションとナショナリズムの近代性と作為性については、均質なネイションは近代における社会と産業の必要性から生まれたという点で学問的にはほぼ決着を見ている。ゲルナーとスミスの近代性についての師弟対決はネイションが全くの無から発明されたのか、それとも前近代から何らかの遺産を相続しているのかという点をめぐって行われたのであり、古代・中世においてネイションが存在したのかについての論争ではない。結局のところ、身分の差が歴然としており越境が困難な社会において、あらゆる社会階層を横断する共属感情を形成することは不可能ではなくともきわめて困難であり、たとえそのような感情が一部で形成されたとしても、それを後世引かれる国境線の内側すべてを覆うほどの広がりを持たせる手段を近代以前の社会は欠いていた。

しかしこのことは必ずしもゲルナーやボブズボームの言うようにネイションとナショナリズムが近代に無から生み出されたことを意味するわけではない。スミスは、近代以前に存在した歴史や神話を核にしてネイションは生まれたのだとする。スミスは近代以前の身分を横断しなかったり、地理的広がりを持たず、ネイションのような政治単位となりえなかった共同体を「エトニ」と呼び、あるエトニが周辺のエトニを糾合し、自らを基準に同化していった結果成立したのが「ネイション」であるとした。このスミスの理解は、いかに小規模なゲマインシャフト的集団が広範で雑多なゲゼルシャフトに変じたかという点でアンダーソンと相互に補完しあっており[6]、現在のナショナリズム論の基本的な考えとなっている。

2009年04月12日

タイタンの妖女

『タイタンの妖女』(- ようじょ、The Sirens of Titan)は、1959年に出版されたカート・ヴォネガットのSF小説。2冊目の小説にあたり、自由意志、全能、人類の歴史全体の目的といった問題についてを扱っている。
主人公のマラカイ・コンスタントは、カリフォルニア州ハリウッド生まれの22世紀のアメリカの富豪である。大変な幸運の持ち主で、彼はそれを父親の財産を殖やすことに使ったが、他には彼の人生で大したことはしていない。彼は、地球から火星へ旅し、地球との惑星間戦争の準備をする。しかし出陣の際に水星へむかってしまい、そこで3年間を過ごした後、地球に戻って神の不興のしるしとしてさらし者になり、最後には、土星の衛星タイタンで彼の幸運に責任を持つウィンストン・ナイルス・ラムフォードと会う。

ラムフォード自身はニューイングランドの裕福な家系の出で、個人用の宇宙船を建造するほどの富を持ち、宇宙探検家となる。地球と火星の間を旅している時に、ラムフォードとその飼い犬のカザックを載せた宇宙船は「時間等曲率漏斗」(クロノ・シンクラスティック・インファンディブラム)として知られる現象に飛び込み、ラムフォードとカザックは量子力学において波が有する確率と同様な「波動現象」になる。彼らは、太陽からベテルギウスに至る螺旋に沿って存在し、地球のような惑星がその螺旋を横切ると、一時的にその惑星で実体化する。

漏斗に入った時に、ラムフォードは過去と未来を知るようになった。小説を通じて、彼は未来を予言する。そして、わざと嘘を言っているのでない限り、その予言は必ず真実となる。

このような状態に置かれたラムフォードは、火星人による侵略後の地球を団結させるために「徹底的に無関心な神の教会」を創立する。また、様々な惑星で実体化し、火星人の侵略を煽動する。彼は、拡散したイメージではなく、実体のある人間として存在することができる唯一の場所であるタイタンで、故障した宇宙船を修理するために小さな金属部品を求めているトラルファマドール星(『スローターハウス5』をはじめとするヴォネガットの他の小説にも登場する)からの探検者、サロと友人になる。

トラルファマドール星人の探検者、サロは、実は何千年も前にトラルファマドール星から遠く離れた銀河へのメッセージを届けるために作られたロボットで、その宇宙船は「そうなろうとする万有意志」 (Universal Will to Become, UWTB) で推進する。

サロは、宇宙船の小さな部品が壊れたため、太陽系タイタンで足止めされている。彼はトラルファマドール星に助けを求め、仲間のトラルファマドール星人は、地球人類の文明が交換部品を製造することができるように、人類の歴史を操作する。ストーンヘンジや万里の長城やクレムリンはすべて、トラルファマドール星人の幾何学的な言語で、彼らの進捗状況をサロに知らせるためのメッセージである。

交換部品はひとつの角が丸められ、2つ小穴があけられた小さな金属片だと分かる。それを届けるために人間の歴史が操作されてしまったトラルファマドール星のメッセージは、点がひとつ。トラルファマドール語で「よろしく」という意味だった。

金属片はコンスタントとその息子のクロノ(ラムフォードの元妻との間に生まれた)によってサロの元へ届けられる。そのとき太陽黒点がラムフォードの螺旋を乱し、彼とその飼い犬カザックは別々に広大な宇宙のどこかへと送られる。その直前にラムフォードとサロとの間で行われていた口論は、ラムフォードが消えたため未解決になり、取り乱したサロは自分を分解してしまい、コンスタントとクロノはタイタンに取り残される。クロノはタイタンの鳥と一緒に生活することを選ぶ。32年後、クロノの母は亡くなり、コンスタントはサロをどうにか再び組み立てる。

サロはコンスタントを地球のインディアナ州インディアナポリスに還し、コンスタントはそこで死を迎える。

この本の書名は、サロがタイタンの泥炭を彫刻した像に由来する。この像は3人の美しい女性の姿をしており、ラムフォードの水泳プールに沈められた。コンスタントはこれをタバコの宣伝のデザインに使い、あからさまな商業主義によってその恐ろしいほどの美しさをけがそうとした。

この本はヴォネガットの後の著作の基本的な要素をすべて含んでいるのではないかと言われることがある。例えば、ラムフォードの過去、現在、未来を見通す力は、『スローターハウス5』でビリー・ピルグリムが時の中に解き放たれるのと似ている。

ニンソウ フウラン ヒップ バビリン 竹の舞 しずくいし ヤッピ つばめ くりたけ クラー うたま ウシや ガーズ オーデエ タッチ じょうぼう モウセン セプタム パラセ スパイク フェロ くらし やさしい サブミッ コール スイマー フラン フマン スモー ちずい バスラ ほこたし クロムダ プレパラー つるむ レターイン ストーン イルミネ スピンタ イルマン ルリナ テスト ばなな メリー コリン パーベ リッチ かずら ドライト オリジ


2009年03月28日

梅毒(ばいどく、Syphilis。黴毒とも)

梅毒(ばいどく、Syphilis。黴毒とも)は、スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマ (Treponema pallidum) によって発生する感染症、性病。 試験管内の培養は不可能のため、病原性の機構はほとんど解明されていない。1998年には全ゲノムのDNA 配列が決定、公開されている。

梅毒が歴史上に突発的に現われたのは15世紀末であり、そのため本病の由来については諸説ある。

梅毒は15世紀以前から旧世界(ヨーロッパ・アジア・アフリカなど)に存在していたとする説。古い法令に梅毒に関するものがあるなどとするが、本病による病変を示す人骨等の具体的資料は無く、支持者はほとんどどいない。
梅毒は、症状が非常に軽い状態で旧世界に古くからあったとする説。現在でも熱帯地方を中心に、皮膚に白斑が生じる程度の「ピンタ」、潰瘍を生じる「ヨーズ」など軽症のものがあるが、これらは梅毒トレポネーマにより起こることから、旧石器時代(1万2000年以前)にピンタかヨーズが発生し、人類の間に広がり、15世紀末にヨーロッパでトレポネーマに変異が起きて梅毒が生じたとする。
クリストファー・コロンブスの率いた探検隊員がアメリカ上陸時に原住民女性と交わって感染し、ヨーロッパに持ち帰り、以後世界に蔓延したとする説。コロンブスの帰国から梅毒の初発までの期間が短いという難点があるが、アメリカでも古い原住民の骨に梅毒の症状がある例が発見されており、また例えば日本でも、コロンブス以前の人骨には梅毒による病変が全く見つかっていないなど証拠は多く、最も有力な説とされている。
旧ソ連の学者により唱えられた説で、梅毒はアメリカ起源ではあるが、ベーリング海峡を渡ってシベリア経由でヨーロッパに入ったとする。原因は、ベーリング海峡を通して両地域の住民の交流があったためである。
日本では1512年に記録上に初めて登場している。交通の未発達な時代にもかかわらず、コロンブスによるヨーロッパへの伝播からわずか20年でほぼ地球を一周したことになる。抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリンなどの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快する。梅毒トレポネーマは抗生物質への耐性は獲得していない。罹患患者も減少しているが、根絶された訳ではない。

なお、日本語による梅毒の語については、梅毒によって生じる瘡が楊梅(ヤマモモ)の果実に似ていたため「楊梅瘡」と呼ばれていたが、これが時代と共に変化し、現代の「梅毒」と変化したとする説がある。

臨床像 [編集]
1978?1999年の22年間に東京都多摩地区に於いて行われた健康な人を対象とした抗原検査結果によれば、45,614例中1,017件(2.23%)が脂質抗原検査陽性で、このうちTPHA法、FTA-ABS法によるトレポネーマ抗原の検査陽性は639例(1.40%)。陽性率は1978?1999年まで概ね1?約2%の間で推移し、梅毒の潜在的な感染例は減少していない。また、陽性例中の493例(約77%)は60才以上であった[1]。


感染経路 [編集]
主に性行為・オーラルセックスにより感染、皮膚や粘膜の微細な傷口から侵入し、進行によって血液内に進む。これ以外にも母子感染、輸血血液を媒介とする感染もある。母子感染の場合、子供は先天梅毒となる。

症状 [編集]
第1期と第2期が感染しやすく、感染後約1週間から13週間で発症する。治療しない限り病原体は体内に残り、最終的には死亡する。現代においては先進国では、抗生物質の発達により、第3期、第4期に進行することはほとんどなく、死亡する例は稀である。第1期梅毒の最初の数週間は偽陰性を示すことがあり、検査において陽性を示さない。

第1期
感染後3週間?3ヶ月の状態。トレポネーマが侵入した部位に塊(無痛性の硬結で膿を出すようになり、これを硬性下疳と言う)を生じる。塊はすぐ消えるが、稀に潰瘍となる。また、股の付け根の部分(鼠径部)のリンパ節が腫れ、これを横痃(おうげん)という。6週間を超えるとワッセルマン反応等の梅毒検査で陽性反応が出るようになる。
第2期
感染後3ヶ月?3年の状態。全身のリンパ節が腫れる他に、発熱、倦怠感、関節痛などの症状がでる場合がある。
バラ疹と呼ばれる特徴的な全身性発疹が現れることがある。赤い目立つ発疹が手足の裏から全身に広がり、顔面にも現れる。治療しなくても1か月で消失するが、抗生物質で治療しない限りトレポネーマは体内に残っている
潜伏期
前期潜伏期:第2期の症状が消えるとともに始まる。潜伏期が始まってからの2年から3年間は、第2期の症状を再発する場合がある。
後期潜伏期:不顕感染の期間で数年から数十年経過する場合もあるが、この期間は感染力を持たない。
第3期
感染後3?10年の状態。ゴムのような腫瘍(ゴム腫)が発生する。また、この状態になってしまうと治癒は不可能である。
感染後10年以降の状態。多くの臓器に腫瘍が発生したり、脳、脊髄、神経を侵され麻痺性痴呆、脊髄瘻を起こし(脳梅)、死亡する。

治療 [編集]
男性の場合は泌尿器科・性病科、女性の場合は産婦人科・性病科を受診。ペニシリン系の抗生物質の投与で治癒する。胎児(母体)に対し、エリスロマイシンを使用した場合には、新生児は出産後改めて治療する必要がある。治癒に要する期間は2?8週間。なお、感染してから1年以内の梅毒を治療した場合、治療初期に38度台の高熱が出ることがある。菌が一気に死滅するための反応熱であり、治療はそのまま続けてよい。かつて、クロラムフェニコールが使用されたが、副作用が強いため。現在では使用されない。

危険な療法 [編集]
16世紀、ヨーロッパで蒸気の吸入や軟膏の塗抹などによる水銀療法が用いられた。これにより多くの水銀中毒が出たため、水銀療法肯定派 (mercurialist) と否定派の間での論争が行われた。梅毒の水銀療法は中国や日本でも行われ、日本では杉田玄白やシーボルトらが記載している。

梅毒トレポネーマは高熱に弱いため、梅毒患者を意図的にマラリアに感染させて高熱を出させ、体内の梅毒トレポネーマの死滅を確認した後キニーネを投与してマラリア原虫を死滅させるという荒っぽい療法がかつて行なわれていた。ただし、この療法は危険度が大きいため抗生物質が普及した現在では行なわれていない。

予防 [編集]
コンドームの着用。不特定多数との性行為の自粛。

ジゴロ ちなアク スローモー ハネウェル トップ ション ウオッチ シンシ 検索ノブ セザンヌ ビーボーイ カーペット フォルダー ランサス ブラウィン ほしゃWE はないずみ セイレー ノンカロ もののふ リターン チロキシ メークイン ワイルド 検索丸玉 オーバー シップブ じゃんけん フュー サブレ とくとう ジャカ ミドル タッチ ガイド レバレ ハイテン メーンス ミヤマキ ごゆう カンマキ ヘーベ ナリー リステ オハイオ シンテニー ミント ダンヒ ピント スクワット


2009年03月12日

ロードスの中世都市

「ロードスの中世都市」は、ギリシャの世界遺産の一つである。ロードス島の主都ロードスの旧市街には、かつて聖ヨハネ騎士団が築いた城塞都市の特質が良好に保存されており、中世ヨーロッパ都市の優れた例証として評価された。

聖ヨハネ騎士団は、1307年の聖堂騎士団の迫害後にイタリアを離れ、ロードス島を占領し、本拠地とした。1309年に教皇クレメンス5世は聖ヨハネ騎士団がロードス島を所有することを認め、以降、ムスリムが手出しをして来るまでの2世紀ほどにわたり、ロードス島は聖ヨハネ騎士団の本拠地でありつづけた。

1444年にエジプトのマムルーク船団がロードス島を攻囲した時には、聖ヨハネ騎士団はブルゴーニュ公国の海軍司令官ジョフロワ・ド・トワジ(Geoffroy de Thoisy)の助けを借りて、これを撃退した。

1453年のコンスタンティノープルの陥落以後、オスマン帝国が急速に勢力を伸ばした。1480年にスルタンのメフメト2世は、メシク・パシャ(Mesic Pasha)に命じて、ロードスへの侵攻を開始した。島の騎士たちは陸海ともによく守り、撃破されたオスマン帝国軍は島から去った。この敗北とともに、オスマン帝国はイタリアへの侵攻も休止しており、結果としてロードス島はオスマン帝国の侵攻から西ヨーロッパを守る防波堤の役割を果たした。

1480年にオスマン帝国を斥けた後、騎士団長のファブリツィオ・デル・カッレート(Fabrizio Del Carreto)は都市防衛力の強化に乗り出し、以後数十年にわたり継続された。そして、彼が歿した1521年には、ロードスの城塞都市はいかなるキリスト教徒の要塞をもしのぐ堅牢さを誇るようになった。

ロードスの海軍はムスリム商人たちへの攻撃を継続していたが、このことは新たにオスマン帝国皇帝に即位したスレイマン1世による第二次ロードス攻囲(1522年)を招いた。数で圧倒的に劣る騎士団は、死力を尽くして都市の防衛にあたり、攻囲軍に対して重大な人的被害をもたらした。
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しかし、ついに1522年12月に騎士団とスレイマン1世は協定を結び、騎士団が持てる限りの財産とともに島を去ることで合意した。これと引き換えに、残された都市住民には一切の報復が加えられないこと、および住民がキリスト教を信仰し続けても構わないことが確認された。1523年1月1日をもって騎士団は島を離れ、以降ロードス島はオスマン帝国の支配下に入った。

城塞都市
ビザンティン帝国時代に築かれた都市は、14世紀から15世紀にかけて聖ヨハネ騎士団によって拡張され、要塞化が行われた。この城塞都市が中世のロードスの市域を定めるものになった。かつての防衛設備は非常に行き届いたもので、11の門、多くの防壁を含み、水の張られていない大きな堀に守られた城壁の列も存在していた。オスマン帝国の支配下にあった16世紀以降も保持され、20世紀になって修復もされたこの城塞都市の建造物群は、ヨーロッパに現存する中世防衛施設群の中では最大級のものである。

この城塞都市は、現在のロードス市では旧市街にあたる。北側のカステロ地区はかつて騎士団が住んでいた街区で、南側のコラ地区は一般住民が居住していた街区である。

騎士団長の館
もとはビザンティン帝国領下にあった7世紀に、都市の軍事拠点として建造されたものである。建物はその後改修を受け、1309年以降は聖ヨハネ騎士団の団長の邸宅と、騎士団領の行政府を兼ねることになった。1522年にオスマン帝国が島を占拠した後は、監獄に転用された。しかし、1856年に火薬庫の爆発事故で崩壊してしまい、現存しているのは1937年にイタリア人によって再建されたものである。この再建は歴史的正当性を欠く改変が加えられてはいるものの、この館が今もなおロードス市の主要観光名所であることに変わりはない。

この館の外側には、15世紀末に建造された美しい旧施療院を転用した考古学博物館が存在している。

2009年02月24日

メタデータ(metadata)

メタデータ(metadata)、メタ情報とは、メタなデータ、すなわちデータについてのデータという意味で、あるデータが付随して持つそのデータ自身についての抽象度の高い付加的なデータを指す。

情報検索システムの検索の対象となるデータを要約したデータのことをメタデータと呼んでいる。図書館情報学の分野では書誌情報と呼ぶこともある。例えば文書であれば著者名や表題、発表年月日等のほか、関連キーワードなどを含めるのが一般的である。また、デジタルカメラを用いて写真を撮影し、JPEGファイルとして保存した場合、Exifにそったメタデータが自動的に作成されるのが一般的である。メタデータとして記述される関連キーワードのことを索引語と呼ぶことがある。他にはYouTubeなどに代表される動画共有サイトやFlickrなどのフォトアルバムサービスなど置いて動画ファイルや画像ファイルをアップロードする際に登録する「タグ」もメタデータの範疇に入る。

メタデータを作成する目的は主に、検索が実行されるたびに検索の対象となるデータの性質を読み取り検索結果に含めるかどうかを判定するのは著しく非効率であり、あらかじめ検索を行いやすい状態に加工を行っておき、データを検索用に整理しておくためのものである。例えばインターネット上に置ける現在の主流な情報検索システムでは、ある特定の動画ファイルを検索する場合は、動画ファイルの動画内容そのものではなく、動画のタイトルやタグなどその動画に付随するメタデータと入力された検索対象のキーワードとの類似性によって、検索結果を出力するのである。

メタデータスキーマ
メタデータスキーマを統一しておくことで複数の主体によって記述されたメタデータの相互運用性を実現することができる。相互運用性の高いメタデータは機械可読なメタデータとして利用しやすいため、スキーマ団体や特定の業界団体において様々なメタデータのスキーマが制定されている。 メタデータスキーマは以下の要素から構成されている:
トゥー リアル ハイティ コンドー ひろこんは ィヨルド むげ カナダドル うらら カッコ ハック モンテレイ オープ よなぐす ホルトノ スープ うとぐ ばくごう ジュア マズル サイエン 黄かぶ レーティ ユースケ ミズーリ すわ最適 ファミ アーカン 白いページ スカラップ ジャン イカリモン シルバ アウディ シャトー ラッキー ワック はます 探偵物語 ドーラン 一粒万倍 けんこう メッセ りあん ノーム フラップ ハンム セルロ チャプター 天安日本

属性集合(属性語彙)
メタデータとして記述する情報資源の属性の定義。例えば:タイトル、著者、出版者など、属性を表す語とその集合の定義。
属性値型集合(属性値型語彙)
メタデータとして記述する属性値の記述形式の定義。例えば、日付や名前の記述形式、主題を表す統制語彙など、属性値の型あるいは形式を表す語とその属性の定義。
構造的制約(抽象構文)
属性値記述の省略可能性や繰返条件などメタデータの構造的な制約。構造的制約は、具体的なシステム上でのメタデータの実現形式に依存しないメタデータの構文規則を決める。
実現形式(具象構文)
システム上でのメタデータの具体的表現形式。

メタデータ利用の問題点
メタデータ、とりわけ広義のそれを利用する場合、主に意味的な部分で情報そのものとメタデータが示す情報の乖離という問題が本質的に生じる。また、情報そのものが改変された場合(必要であれば)メタデータも同時に変更されるべきだが、時間的なずれや同期もれが起こるおそれがある。 第三者による改ざんや、機械的な処理により意味が吟味されないといったことで、検索の精度が低下することもある。また、情報の評価が個々人の主観に依存し大きく異なる場合にはメタデータの有効性が発揮されにくい。したがって、効率が犠牲にならない場合はメタデータを利用するよりも本来の情報そのものを直接参照できるのが望ましいとされる。

2009年02月08日

軍用手票

軍隊は食料などの物資を現地調達する。それは一方的な物資徴発、ともすれば略奪であった。しかし、そのようなやり方は外聞が悪く、徴発相手の反感を招く。そのため近代以降の戦争では各国軍隊が軍票によって物資を購入するという形をとるようになった。つまり軍票は徴発した物資にたいする領収書であった。
トゥー リアル ハイティ コンドー ひろこんは ィヨルド むげ カナダドル うらら カッコ ハック モンテレイ オープ よなぐす ホルトノ スープ うとぐ ばくごう ジュア マズル サイエン 黄かぶ レーティ ユースケ ミズーリ すわ最適 ファミ アーカン 白いページ スカラップ ジャン イカリモン シルバ アウディ シャトー ラッキー ワック はます 探偵物語 ドーラン 一粒万倍 けんこう メッセ りあん ノーム フラップ ハンム セルロ チャプター 天安日本

このように軍隊が所属する国家の通貨制度とは分離して軍票を使用する制度を用いるのは、自国の通貨を使用すると通貨供給量が激増し、結果的にはインフレーションで経済破綻する恐れがあるほか、敵国に自国通貨が渡ると工作資金になる危険性があるなど、戦略面からの要請があるためである。また領収書であるため、手持の貴金属による支払いに比べ、実際の経済力以上の物資の徴発が可能でもある。そのため軍が勝手に印刷して流通させることも出来る。

以上のように、軍票は通貨のような体裁と流通形態をしていて、商品券のような物と誤解される場合があるが、法律上の扱いは法定通貨でも有価証券でもなく領収書であり、最終的には相手国政府当局に提出して現金化する事が必要である。あくまで物資や労働力などを軍が受領し、軍に対して債権を持つことを証明する領収書に過ぎないものである。ただし、期間と場所を限定した場合、軍票が通貨の代わりに流通した例もある。

各国の軍票
第二次世界大戦中には連合国側も発行していたほか、第二次世界大戦後もアメリカ合衆国が世界各地の米軍基地の兵士の給料として米ドル建ての軍票を、1970年代ごろまで支給し使用していた。またベトナム戦争に派遣された韓国陸軍もベトナムで使用する軍票を発行していたほか、イギリス軍も世界各国の基地内で使用する軍票を発行していたこともある。

1ドル軍用手票(1970-1973)第二次世界大戦中のアメリカではAllied Military Currencyという軍用手票が発行されていた。 第二次世界大戦後からベトナム戦争の終わりまで Military Payment Certificate(略称MPC)という米ドル立て軍用手票が発行されベトナムで流通していた。同じくベトナム戦争に派遣された韓国軍も同様の軍票(アメリカ・ドル建)を使用していた。

1990年代になるとアメリカ軍は紙の軍用手票の発行を辞めプリペイドカード方式へと移行した。

日本の軍票
日本においては、西南戦争の際に西郷隆盛が使用した西郷札が軍票の最初であるとされ、その後日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦(青島攻略戦)などの対外戦争で日本政府が占領地で発行しており、太平洋戦争(大東亜戦争)では中国および東南アジアの占領地各地で現地通貨建てのものが使用された。また戦後沖縄で使用されたB円も軍票の一種といえる。

前述のように軍票は、大蔵大臣や日本銀行の許可は要らず、軍が勝手に印刷して流通させることが出来る。そのため、第二次世界大戦では日本軍の各軍団が勝手に軍用手票を乱発して経済的混乱を招く結果となった。

中国戦線で使用した日本円以外にもペソやグルデンなどのさまざまな通貨単位の軍用手票が各占領地で発行された。中には南方開発金庫などの日本が設立した現地金融機関が発行した場合もあった。また、対ソ戦を想定しルーブル表示の軍票も試作されたが、実際に使われること無く消滅した。

日本の軍票シリーズ
日本貨幣商協同組合『日本貨幣カタログ2007』によれば、日本軍が発行した軍票を次のシリーズに分類している。なお、日清戦争から日華事変甲号軍票までは明治時代に発行された明治通宝とよばれる政府紙幣のデザインを踏襲した縦型のものを使っていたが、その後は銀行券スタイルのものが発行されるようになった。

日清戦争軍票(両単位)
1895年に勃発した日清戦争で発行、10両、5両、1両、5銭、2銭5分の清時代の通貨単位の軍票を1895年2月に発行したが、戦争が予想よりも速く終結し、あまり軍票を発行することがなかったため、ほぼ全量が回収された。そのため現存するのは1両軍票数枚という珍品である。
日露戦争軍票(銀円単位)
日露関係険悪化のため、戦争開始前に用意されていたため、日露戦争開始直後の1905年2月に発行。清国や朝鮮で使用するために、朝鮮語(ハングル)による表記がされていた。10円、5円、1円、50銭、20銭、10銭が発行され大量に流通した。戦後多くが回収されたが、従軍した日本軍兵士が低額券を戦勝記念に持ち帰ったため、比較的入手しやすい。
戦地で軍票額面価格を維持するために、いつでも正銀貨と引換を希望すれば、戦地所在の横浜正金銀行各支店、内地指定の金庫、韓国金庫派出所、野戦郵便局、韓国、北中国所在の日本普通郵便局、第一銀行出張所で軍票を受入れた。明治38年6月末までに軍票の発行高は金1億4054万5000円であった。
青島出兵軍票(銀円単位)
第一次世界大戦勃発に伴い、日英同盟に基づき日本はドイツ帝国に宣戦布告。当時ドイツが中国に持っていた山東半島の租借地を占領する軍事作戦を展開したが、この時に占領地で使用するために1914年9月に10円、5円、1円、50銭、20銭、10銭が発行された。1926年の統計によれば青島出兵で発行された総金額は11,812,197円で、そのうち161,956円が未回収とされている。そのため残存数が少なく比較的高価なプレミアで取引をされている。
シベリア出兵軍票(金円単位)
第一次世界大戦末期にロシア11月革命が発生し、史上初の社会主義政権が誕生した。皇帝派と革命政権派が激しい内戦が行われたが、世界の列強がチェコスロバキア軍救援を口実にシベリアに出兵した。日本もシベリアに出兵したが、シベリアや北満州で使用するために1919年8月に金兌換を保証した10円、5円、1円、50銭、20銭、10銭が発行された。そのため、日本語とともにロシア語による表記がなされている。
日華事変軍票(銀円単位)
1931年の満州事変以後、日本に対する中華民国の排日運動が激化していったが、日本軍部が「治安の維持」を口実に暴走し、中国大陸への派兵と侵略を進めていった。1937年には日華事変(日中戦争)が勃発し、事実上全面戦争に突入した。当時の中国では満州では日系の朝鮮銀行券(日本円と等価)が流通しており、上海では日本銀行券も流通していた。そのため、日本軍は戦争の進展に応じて様々な軍票や傀儡政権下の中国聯合準備銀行や中央儲備銀行が発行した銀行券も使用していた。そのため、軍票だけでも多くのシリーズがあり、種類も多い。
甲号券 日本軍が従来発行していたスタイルの縦型の軍票。1937年に発行されたが、デザインが陳腐していたため、額面300万円しか使われなかった。
乙号券 当時の日本銀行兌換券の文字を抹消し、「軍用手票」と大きく印刷して発行。
丙号券 日本銀行の文字を印刷していない紙幣に「大日本帝国政府軍用手票」の文字を印刷して発行。
丁号券 鳳凰や龍といったデザインに変更した「大日本帝国政府軍票手票」として発行。
戊号券 丁号券の表記を「大日本帝国政府」に変更して発行
ろ号券 戊号券のうち「ろ」で始まる記号があるもの。仏領インドシナで使う目的の軍票であったが、殆ど使用されなかった。そのため比較的高価なプレミアが付いている。
大東亜戦争軍票(各国単位)
1941年以後に日本軍が占領したアジア太平洋地域の各地で発行された軍票。各占領地域で発行されたため、軍票の通貨単位も異なり、多くのシリーズがあり、種類が多い。
は号券 蘭領インドシナで発行。単位はグルテン。
に号券 英領マラヤで発行。単位は海峡ドル
ほ号券 米領フィリピンで発行。単位はペソ
へ号券 英領ビルマで発行。単位はルピー
と号券 英領太平洋地域で発行。単位はポンド

関連法律
ハーグ陸戦条約第52条に「現品を供給させる場合には、住民に対して即金を支払わなければならない」、「それが出来ない場合には領収書を発行して速やかに支払いを履行すること」と書かれており、この領収書として用いられているのが、軍用手票である。

「軍票による支払等の許可の申請手続に関する省令」により、日本人が日本から外国に対して軍票による支払いを行う場合には、財務大臣の許可を受ける必要がある。現在ではこの手続きはオンラインでも受け付けているが、オンライン申請された実績は無い。 この省令が言うところの軍票とはGHQと在日米軍が日本国内で使用した軍票の扱いに関してであり、大日本帝国が発行した軍票のことではない。本来の趣旨はアメリカ軍から軍票による支払いを受けた日本企業がアメリカに対して支払いを行う場合の手続きを定めている。当時はドルの持ち出し制限があったため、その関連事項でもある。 現在、アメリカ軍は軍票を発行していないので、今後も申請されることは無いと思われる。

軍票問題
フィリピンの5ペソ軍票に押された日本政府に償還を求める団体のスタンプ日本軍が発行した軍票は、敗戦により紙切れと化した。発行数量が多すぎたため、一部ではインフレで実質的価値が消滅したのもあった。特にインフレが激しかった地域では、タバコの巻紙に軍票が使われたといわれている。軍票に対する日本政府の支払い義務は、連合国がサンフランシスコ講和条約で請求権を放棄したため、消滅したとされている。

しかし、戦後もフィリピンや香港で日本軍が発行した軍票に強制的に両替させられた住民による、戦後補償を求める訴えがある。香港では中国中に流通していた日本軍の軍票が一挙に流入させられたため、前述のように強制的に両替させられた住民は大きな経済的損害を受けた。実際に、日本の裁判所で日本政府に対する損失補填を求める民事訴訟が起こされたが、1999年6月17日に東京地方裁判所は、当時の国際法で戦争被害に対する個人の損害を補償しないという原則と、日本の国内法に軍票を交換する法律が存在しないことを理由に請求を棄却した。

またフィリピン方面で日本軍が発行した軍票のうち、現存するものの中には日本に補償を求めるスタンプを押したものが存在する。これは軍票所持者から信託を受けた団体が受領書を交付し、団体ではスタンプを押して管理するというものであった。しかし、現在では元の所有者に返され、多くの紙幣収集家の手元に納まっている。

軍票を描いた切手
オランダ郵政当局が1985年に発行した「第二次世界大戦終結40周年」記念切手3種のうちの1種には、オランダ人が日本の皇居に向けて土下座している姿とともに軍票が描かれていた。

2009年01月23日

キョン(羗)

キョン(羗、英名:Reeves's muntjac、学名:Muntiacus reevesi、中国名:黄麂、山羌)とは哺乳綱偶蹄目シカ科ホエジカ属に分類されるシカである。

中国東部、台湾に自然分布。日本(房総半島、伊豆大島)に移入。

形態
体長:70-100cm。肩高:40-50cm。体重:10-15kg。オスには短い角と牙がある。目の下方に臭腺(眼下腺)の開口部があり、これがつぶった眼のように見えるため、四目鹿(ヨツメジカ)とも言う。

学名や英語名は東インド会社の茶の鑑定人で1812年に広東を訪れ、この種の記録を残したイギリス人John Reevesにちなむ。

和名は「羌」を台湾語で読んだ「kiong」(キオン)による。

生態
森林、低木林に生息する。群れは形成せず単独で生活する。

草食性で木の葉や果実等を食べる。

繁殖形態は胎生で1回に1匹の幼体を出産する。

なめし皮はきめがとても細かく、セーム革の中でも最高級品とされる。楽器やカメラレンズ、骨董品、刀剣などの手入れのほか、最近では洗顔等にも良いとして注目を浴びている。

肉質は柔らかく、脂肪も少ない。福建料理などの中華料理では、薄切りまたは細切りにして、炒め物などにされる。


日本では元々動物園で飼育されていた個体が逃げ出し、野生化している。農作物への被害や生態系への影響が懸念されることから、外来生物法により、2005年に特定外来生物に指定された。よって、許可なく日本国内に持ち込んだり国内で飼育したりすることは禁止されている。 千葉県では既に1984年?1990年頃から生息しており[1]、02年から急激に増加して2007年12月現在、野生キョンの棲息数は平均3400頭に達していると推定され[2]、千葉県が駆除に乗り出している。フジテレビ「とくダネ!」の「得盛り」のコーナーでも取り上げられた(平成20年1月15日放映)。

脚注
^ 房総のシカ調査会 「千葉県イノシシ・キョン管理対策調査報告書1」 千葉県環境部自然保護課・房総のシカ調査会、2001年[1]。
^ 『東京新聞』2007年12月25日[2]。ただし正確には約3400±2000頭の推定生息数。
ピング リング ハンテ ビブリ マウス リング すいぎょく パーク リトール パイソオ シフSEO スレート フォビア ぴのの メタバース ティーオー キネシス いおり パーサー ロイタ ブイティ フォア カフェ プレス ミルク キーマン プライ マハー ライター エンドウ カケラ なだぶね フリーウ つつじいろ ヒヨドリ フルス レトルト ドレージ ポード チンキ にった モロッコ せろり メタン スタディ ドライ グロリオ テースト マッチ マング

関連項目
シカ
がきデカ:主人公のギャグに「八丈島のキョン!」というフレーズがある。(しかし、前述の通り農作物への害が懸念される為、現在では八丈島内には植物園内に僅かに飼育されているのみである。)
行川アイランド:千葉県内で唯一キョンを飼育していた遊園地。ここから逃げ出した個体が野生化し大繁殖をしたとみられる。
タイワンリス(台湾栗鼠、Callosciurus erythraeus thaiwanensis )は、ネズミ目リス科ハイガシラリス属(Callosciurus タイワンリス属、クリハラリス属とも)に属する小型のリス類の1種である。アジア全域(中国からマレー半島)にかけて広く分布するクリハラリス Callosciurus erythraeus の台湾固有亜種である。

このリスを、別種のハイガシラリス Callosciurus canicepus (Gray,1842) の一亜種とする説がある。しかし、台湾にはハイガシラリスは分布しないとする説 (A.Duff & A.Lawson 他) により、一般的にはクリハラリスの一亜種とされる。

単体で行動する。しかし、幼少期などは群で行動を共にする。木の枝から枝へ1mほど飛ぶことがある。ワンワン、クックッという鳴き声は小型犬やアカゲラの声に似ている。繁殖期には細い木の枝を集めて樹上に巣を作る。木の葉が落ちた冬には丸見えになった巣を観察することができる。

日本への帰化
1935年に伊豆大島の公園から逃げ出したのを皮切りに、神奈川県南東部、静岡県東伊豆町(熱川)・浜松市(浜松城)、岐阜県岐阜市(金華山)、大阪府大阪市(大阪城)、和歌山県和歌山市(友が島・和歌山城)、長崎県など日本各地に観光用として放され、広く帰化している。

神奈川県の江ノ島では、1951年に伊豆大島から連れてきた54匹のタイワンリスを江ノ島植物園で飼育した。しかし、台風で飼育小屋が壊れたことで逃げだし、弁天橋を渡って鎌倉市内に入り込んで繁殖するようになったと言われている。また、鎌倉市内の個体については、別荘地で飼われていた個体が逃げ出し野生化したとする説もある。

帰化に伴う問題
1980年代になり、個体数が増えて分布が拡大したことで在来種であるニホンリスと競合し、ニホンリスの地域的な絶滅要因になる可能性が懸念されている。コゲラやシジュウカラといった小鳥の巣がある樹洞の入り口をかじって広げ、中にいる雛や卵を食べる被害も報告されている。餌の少ない冬場などは人家近くに現れることも多い。主に木の実を食べる。ツバキの蕾や収穫前の果実を食べることや、樹木の樹皮をはがして食べることがあり、食害が問題になっている地域もある。また地域によっては、電線や電話線をかじる、雨戸などの家屋をかじるといった被害も出ている。2005年に外来生物法による特定外来生物に指定された。

利用例
岐阜県岐阜市の金華山にはタイワンリスと遊べる「金華山リス村」が所在する。このように、一見は可愛い動物であるから、観光的に利用しようという例はあるが、野外に放った形であれば、次第に大発生をして植物などに大被害を与える可能性が大きい。そうなった場合には手のひらを返すように害獣扱いする例も見られる。いずれにせよ、外来種を野生化させることの危険性は認識されるべきである。

2009年01月16日

天智天皇の息子である大友皇子

ちぇりもや 変わら ラビリティ サーミ サフィニア マンダ ロイワ モナムール セーター チたねもみ セイロ スパチュラ カーバ スキー トンカツ オーバ スパート ディーエー 激しい 地球 しらあや タンニン デラッ チャペル ブレスト オリーブ ウィン べにいろ バラード マレイド せっつ フローシー ファイター レランス ユート 甚兵衛 スウィング バイオ アーコ のつ国内 レトリ パッション セレブ オペック ケルビン メンヒル にらめっこ サンゴ とまこまい イアク

壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破り、飛鳥浄御原宮で即位する。『日本書紀』によるならば周知の事実として次期天皇は実力にも恵まれた大海人皇子と合意がなされていたが、反乱をおこした大友皇子を滅ぼした恰好となっている。この際に大友皇子が即位していたか否かで正統性が一方に傾くため、議論が絶えない。もし大友皇子が正統に即位していたならば、大海人皇子は皇位を簒奪したことになる。

ともあれ、即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指す。天武元年(673年)5月に官僚機構の整備として機内出身者で宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにした。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもあった。天武5年(676年)、畿外の人々にも官人への道を開き、彼らには最初は兵衛として宮城の警護の役目を与えた。また天武7年(678年)、官人の勤務評定(考)や官位の昇進(選)に関して考選法を定めた。さらに天武13年(684年)、八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大した。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革した。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行った。これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達された。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を1人も置かなかった。

地方の支配体制を明確にするために『日本書紀』天武13年(684年)10月の条に「伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ」とあり、地方の行政組織づくりが進んだ。

天皇の宗教的権威も高められた。伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。またこの頃から新嘗祭と大嘗祭の区別などがされ、現在にまで継承されている。仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。一説によると天皇号の使用も天武天皇が始めたとされる(天皇号の始まりは推古天皇説などもある)。

皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈って薬師寺を建立させている。ただしこの薬師寺の建立地は飛鳥であり、現在の地ではない(現在、この薬師寺の址として奈良県橿原市に本薬師寺址という史跡が存在する)。

飛鳥浄御原宮を建造したほか難波にも宮殿を建造した。この難波の宮殿は唐などの複都制に倣った陪都(副都)であるとされている。また、藤原京の建造を開始したのも天武天皇のときであるとする説もある。

外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)により新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶した。

文化面では帝紀と旧辞を記し校訂する修史事業が行われた。後に、「古事記」編さんの際に語り部を行った稗田阿礼は天武天皇からこの帝紀を暗誦するよう命じられたといわれる。また、五節の舞を始めとする宮廷儀礼の定式化も進められた。

天武4年4月17日(675年5月19日)のいわゆる肉食禁止令で4月1日(5月3日)から9月30日(10月27日)までの間、稚魚の保護と五畜(ウシ・ウマ・イヌ・サル・ニワトリ)の肉食を禁止する。

庚寅詔諸國曰 自今以後 制諸漁獵者 莫造檻阱 及施機槍等類 亦四月朔以後 九月三十日以前 莫置比滿沙伎理梁 且莫食牛 馬 犬 猿 雞之肉 以外不在禁例 若有犯者罪之 - 『日本書紀』
現在日本最古の貨幣とされている「富本銭」も天武天皇の時代に発行されたとされている。

「政(まつりごと)の要は軍事(いくさのこと)なり」と記した詔を発し、畿内の官人らに武器や乗馬の訓練をするように命じている。

律令国家を目指しての政策の一環としてか、天武11年(681年)にはそれまでの日本独自の髪型である角髪を改めるように命じている。これ以後、冠を被るのにふさわしい形の髷になった。

また、天武12年(682年)には位階を示す色を従来の冠の色から朝服の色に変更している。

「天武天皇 九つの偉業」
天皇号の創始
陰陽寮・占星台(天文台)の設置
「古事記」「日本書紀」の編纂勅命
践祚大嘗祭の制定
宮都の選定と設計
八色の姓の制定
飛鳥浄御原令の制定
三種の神器の制定
伊勢の遷宮の制定・開始

生没年
系図上では父が舒明天皇で天智天皇の弟とされているが、「天智と天武は兄弟ではなかった」「天武は天智の異母兄、若しくは異父兄だったのではないか」といった説も根強く言われている。鎌倉時代に成立した『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』、『皇年代略記』ではそれぞれ生年が推古天皇30年(622年)・31年(623年)と考えられ『日本書紀』での天智天皇の生年・推古天皇34年(626年)を上回る事等がその根拠とされている。特に母の皇極天皇が舒明天皇の前に結婚していた高向王との間に生まれた漢王と同一人物(つまり、天武異父兄説)。ではないかとする考えが有名であるが、同一史料には矛盾は見られない(詳しくは下記参照)。そしてこれら一代要記等の史料と日本書紀は編纂された時代も性質も異なり、同列で比較するのはおかしいという反論もある。学会では「『一代要記』などの65歳は56歳(同55歳)の写し間違いであり、逆算して631年生まれである」としているが、無理があると反対する研究者もいる。いずれにせよ、正確な生年は未詳である。

日本書紀以外の主な史料の天智・天武の生年(左が天智、右が天武の生年)。

一代要記・・・・・・・・・推古天皇27年(619年)・30年(622年)
仁寿鏡・・・・・・・・・・・推古天皇22年(614年)・不明
興福寺略年代記・・・舒明天皇3年(631年)・12年(640年)
神皇正統記・如是院年代記・・・・・共に推古天皇22年(614年)
神皇正統録・本朝皇胤紹運録・・・推古天皇22年(614年)・30年(622年)
皇年代略記・・・・・・・推古天皇22年(614年)・31年(623年)

年譜
舒明天皇3年(631年)? 誕生
天智天皇7年(668年) 天智天皇の皇太弟に立てられたとされる(否定する説もある)。
天智天皇10年(671年) 重病の天智天皇に後事を託されるも固辞し、出家して吉野に移る。
弘文天皇元年(672年) 壬申の乱で天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)を破る。
弘文天皇2年(673年) 飛鳥浄御原宮にて即位する。
天武天皇4年(675年) 部曲を廃止する。占星台を設置する。
天武天皇5年(676年) 陰陽寮を設置する。
天武天皇7年(678年) 官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定める。
天武天皇8年(679年) 吉野に行幸する。皇后、草壁皇子らに皇位継承争いを起こさないよう誓わせる(吉野の盟約)。
天武天皇9年(680年) 皇后(後の持統天皇)の病気平癒のため薬師寺の建立を命じる。
天武天皇10年(681年) 飛鳥浄御原宮律令の制定を命じる。草壁皇子を皇太子に立てる。
天武天皇11年(682年) 匍匐礼を廃し、立礼にすることを命じる。
天武天皇12年(683年) 富本銭の発行。
天武天皇13年(684年) 八色の姓を定める。
天武天皇14年(685年) 冠位四十八階を制定する。
朱鳥元年(686年) 崩御。

天武天皇を扱った作品

小説
結城光流『篁破幻草子』 - 主人公・小野篁の前世が天武天皇だったという設定である。

漫画
里中満智子『天上の虹 持統天皇物語』 - 第41代天皇・持統天皇である主人公・鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ)の夫である第40代天皇として。

脚注・参照
^ (原文)「天渟中原瀛眞人天皇。天命開別天皇同母弟也。幼曰大海人皇子。生而有岐嶷之姿。及壯雄拔神武。能天文遁甲。納天命開別天皇女菟野皇女爲正妃。天命開別天皇元年立爲東宮(以下略)」
(書き下し文)「天渟中原瀛眞人天皇(あまのぬはらおきのまひとすめらみこと)。天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)の同母弟(いろと)なり(中略)天文遁甲(てんもんとんこう)を能し(略)」
日本書紀巻二八・天武(前紀)冒頭より。天渟中原瀛眞人天皇とは天武天皇のことで、大海人は天武天皇の諱である。ちなみに瀛とは道教における東方三神山瀛洲山(残る2つは蓬莱、方丈)のことである。